現代にとってフロイトとは何だろうか(2)「私有化」されたフロイト

現代フロイト読本 1

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精神分析と現代

前回の記事では 、概略としてフロイトの論文を藤山直樹氏の論文を元にして3期に分けて整理した。そして、最後の問いとして「現代にとってフロイトとは何だろうか」という問いが生まれた。フロイトの論文と精神分析の実践は切り離せない以上、この問いに答えるためには現代という時代において精神分析がどのような位置に置かれているかを考えなければならない。『ヒステリー研究(1895年)』から始まった精神分析はどのようにして扱われているのだろうか。その補助線としてまずは立木康介氏の著作である『露出せよ、と現代文明は言う』を元にして考えていきたい。

重要なのは、この精神分析をとりまく環境が、フロイトの時代と比べて現代では大きく変わってしまったということである。精神分析の周囲には、いまやあらゆるタイプの精神療法が林立していて、精神分析はそのなかで自らの足場を確保することを余儀なくされている。

立木康介『露出せよ、と現代文明は言う(p21)』より

アメリカ精神医学会の診断マニュアルDSMが、1980年に発行された第三版において「神経症」のカテゴリーを放棄したことは、ひとつの歴史的事件だった。

立木康介『露出せよ、と現代文明は言う(p31)』より

フロイトから始まり日本を含め多くの国に広まった精神分析の実践は、1980年以前の様な勢いを現代は放ってない。その理由の一つとして、立木康介氏も言及しているように、DSM-Ⅲにおいて「神経症」のカテゴリーを放棄したことが指摘できるだろう。DSMの普及と共に精神医学及びその近接領域はいわばマニュアル化された。極めてデジタルな基準を元にして患者の精神的状態を把握するようになった。またその後において、非定型抗精神病薬に代表されるような薬物療法が発展されたこともあり、精神分析の営みというものは後景化されていった。現代においての精神分析批判の代表例としては「精神分析エビデンスの無い過去のものである」ということであろう。精神医学に本格的にエビデンス主義がもたらされて以後、「エビデンスの無い精神療法の一種としての精神分析」というレッテルが貼られることとなる。現代においての精神分析の立ち位置というものは概ねそうなってると言っていいだろう。

1952年に初版が発行されたDSMの改定の歴史は、アメリカ精神医学が精神分析から遠ざかっていく経緯を色濃く映し出している。いっさいの病因論(したがって構造論)を排し、症候的な特徴と数量的な基準のみから診断を行うことを可能にした第三版は、アメリカ精神医学の脱精神分析家を明確に意図して編まれた改訂版だった。いや、それどころか、事実上の「反精神分析マニフェスト」だったとさえ言えるかもしれない。

立木康介『露出せよ、と現代文明は言う(p215)』より

現代においてフロイトを読むということはどのようなことであるのか

精神分析という実践が時代と共に衰退されていくにつれて、フロイト自身の著作も過去の遺物とみなされ読まれなくなってしまった。その様な時代においてフロイトを読むということは一体どのような試みであるのだろうか。時代錯誤なのだろうか。『現代フロイト読本1』所収論文である北山修氏『私有化された「フロイトを読む」』は興味深い洞察を行っている。

実用性や即効性を疑うこと

もはや現代は、フロイト精神分析に熱狂的に飛びついて、フロイトを真に受けて、そして信じて、裏切られていく、というような「フロイト・ブーム」の時代ではない。

北山修『私有化された「フロイトを読む」(p367)』より

人生を読みながら生きること

 こうした醒めた紹介の中で、フロイトを読みながら読者の側に始まる運動として、ただ一つだけ強く言っておきたいことがある。フロイトがそうしたように、自分の人生を考え、自分の生き方を読んで、そしてこれを生きること、生き直し語り直すころには歓びがあるということだ。

北山修『私有化された「フロイトを読む」(p368)』より

ここで強調しておきたいのが、現代の精神医学に対して批判をする意図はないということだ。DSM-Ⅲ以後という後戻り不可能な時代に生きている我々は、必要があれば現代の精神医学の恩恵を受けなければいけない。だからこそ、いささか「居心地の悪い」時代に生きているからこそ、改めてフロイトを読む価値があるのだということをこの記事では主張したい。北山修氏が言及しているように、《実用性や即効性を疑うこと》にこそフロイトの可能性の中心を見出すことが重要である。「すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなる」という言葉があるように効率化されたものには必ず歪みが生じる。人間が主体として生きるために、精神分析の実践やフロイトを読むという行為には価値がある。そして、価値を見出すためには積極的にフロイトを「私有化」しなければいけない。

どこから読んでもいい

私は、フロイトを、何からでも、どこからでも、読んでいいと思う。

北山修『私有化された「フロイトを読む」(p367)』より

DSM-Ⅲ以後に生きる我々はある意味で幸せかもしれない。もはや競うようにして焦ってフロイトを読む時代ではない。北山修氏の言うように自分の興味の赴くままに自由に読める時代に生きている。年代ごとに読んでも、テーマ別に読んでも、手元にある論文を読んでも、好きなように読める時代である。そして、自分の関心が繋がっていく瞬間にこそ、「私有化」されたフロイトというものがあるのではないだろうか。現代にとってフロイトとは、一般的には「エビデンスの無い時代遅れ」の存在ではあるのだが、筆者はそれだけでは済まされない何かがフロイトにはあると感じている。現代のエビデンス主義が捨象してしまったその要素を分析するためにフロイトを読む必要がある。そのためには積極的にフロイトを「私有化」することが何よりも重要である。

そうして私たちはフロイトを取り入れ、私有化されたフロイト像を確保し、対話する。そこで同一化し取り入れる際、私たちはフロイトと論争し、愛し憎み、批判して、そして学び続けるのであろう。そうしているうちに、いつかフロイト理論が「自家薬籠中のもの」と化すと期待しているのだ。そしてそこにおいてこそ、私たちは自分の人生を分析しながら、自他の独創的で個性的な人生物語を読み取り始めるのだろう。

北山修『私有化された「フロイトを読む」(p373)』より

 ここにフロイトを読む最大の醍醐味があると考えている。

現代にとってフロイトとは何だろうか(1)理論的変遷概略

 

現代フロイト読本 1

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(本記事では上記の『現代フロイト読本1』所収の藤山直樹氏『フロイトの著作について』を引用しています)

フロイトの理論的変遷

岩波書店から刊行されている『フロイト全集』は全23巻にも及ぶ。その中で全てのフロイトの論文に目を通すことはなかなか難しい。『フロイト全集』は人文書院の『フロイト著作集』とは異なり、年代ごとに編纂されているのが特徴だ。藤山直樹氏はこの論文において、フロイトを3つの時期にわけて論じている。それは以下の3期である。

第一期 精神分析以前のフロイト(1897年まで)

第二期 古典理論のフロイト(1910年まで)

第三期 後期理論のフロイト1920年以後)

藤山直樹フロイトの著作について(p14-19)』より

 第一期 精神分析以前のフロイト

この時期における最も重要な論文は『ヒステリー研究(1895年)』だろう。このブロイエルとの共著は「精神分析のはじまりの書」として重要な文献である。またラカン派で重要視される『科学的心理学草稿(1895年)』もこの時期の論文である。またこの時期が「精神分析以前」であるということについて藤山直樹氏は以下のように語っている。

精神分析を特徴づける基本的原理にはまだ到達しておらず、フロイト自身のパーソナルな分析と理論や実践とがまだ関連づけられていなかった。その意味で、この時期の彼を精神分析家であると呼ぶには無理があるだろう。 

藤山直樹フロイトの著作について(p15)』より

第二期 古典理論のフロイト

一般にイメージされるフロイトというのは多くの人にとってこの時期だろう。まさに『夢判断(1900年)』が刊行された時期でもあり、フロイト理論の華と言っていいものはこの時期に多く発表されている。

フロイトは晩年になっても『夢判断(1900年)』、『性に関する三つの論文(1905年)』を自身の最も重要な著作と考えていた。

藤山直樹フロイトの著作について(p18)』より 

 またこの時期のフロイトには症例研究があり、その他にも一連の技法論集が出たのもこの時期である。

フロイトはさらに『精神分析入門』において、神経症が本能欲動の固着と退行によって形成されるモデルを集大成し、本能論と病理論を完全につなぎ合わせることに成功する。

藤山直樹フロイトの著作について(p19)』より 

藤山氏はここでこの時期までのフロイトの考えをほぼ要領よくまとめたものが『精神分析入門(1916-1917年)であると述べており、いわゆる第二期のフロイト理論なるものの集大成と言えるだろう。また、ラカン派のミレールは「ラカン理論というものは、『精神分析入門』の第17講と第23講の注釈である」と述べている。それだけにこの『精神分析入門』という一連の論文は重要視されている。

 第三期 後期理論のフロイト

この時期を代表する論文は『快原則の彼岸(1920年)』、『自我とエス(1923年)』、『制止、不安、症状(1926年)』である。

この時期のフロイトは、死の本能論に代表されるように全体的に悲観的であり、さらには精神分析の治療効果に対しても強い疑念を『終わりある分析と終わりなき分析(1937年)』で表明し、治療的な楽観主義に警告を発している。

藤山直樹フロイトの著作について(p21)』より 

現代のフロイト

以上の様にフロイトの変遷を藤山直樹氏の論文をベースにして論文ごとにまとめて見ていった。そして私達はここから考えなければいけない。それは「現代にとってフロイトとは何だろうか」ということだ。それは「現代においてフロイトを読む意義とは何か」とも言い換えることができる。それに対して『現代フロイト読本1』の中で北山修氏は興味深いことを述べている。次回は、その問いについて考えていきたい。